ISBN:978-4-910205-81-6
定価:\1800+税

作品概要

破くということ。破り捨てるということ。文字の羅列にそれはできない。インターネットの文字範囲は、どこまでも延びていく。おそらく各自の脳みそにまでテキストを流し込むだろう。
電子テキストの文字列は定位置にとどまらず、消えたあとにもまたあらわれる。つまり、媒体に貼り付いていない。個体の脳みそもしかりと言える。
紙媒体に打刻されることは磔刑に等しい。はりつけにされたそれらの文字は、移動できずにただ破られる。
しかしぼくは、移動する文字を発見した。最初は普通のかめに見えたのだが、その甲羅には文字が刻まれていたというわけだ。ぼくはそのかめを、いいや、その文字を追うことにした。
文字は、文字同士では反発しない。しかし文字の配置をそのままに、ぼくからはなれようとする。まるで星空のような軌道を見せる。肝心のかめは文字を背負っていることに気付いていない。どころか、文字そのものが当のかめを支配して、みずからを運ばせているような気さえした。
どこにいくつもりなのか。それともぼくから去りたいだけなのか。確かめたくなったので、いったん、ぼくは追うのをやめて草むらに身をひそめた。
すると、文字はその場にとまった。やっぱりぼくをさけていたのかと思って、そろそろと近づいたところ、今度は、逃げようともしない。手足とあたまを甲羅のなかに引っ込めている。
ちがう、中身がない。甲羅の内部に続く穴をのぞいても、暗い空洞ばかりがある。
割りたくなった、文字ごとだ。
ただ、もともとかめの一部だったそれを割るのはわるい感じもしたので、割るのはがまんして、文字を読み始めた。とても小さな文字だ。顔を限界まで近づけた。ぼくはぼく自身を文字に貼り付けた。
次第に、ぼくはそれが甲羅であることを忘れた。移動しない、紙媒体に変わりなかった。だからそれは、本のように見え、冊子のように束ねられ、ぼくを内部に織り込んだ。
もしかしたらこのとき、かめの手足が復活し、文字列に加わったぼくをどこかに連れていったのかもしれない。
ひび割れにことならないぼくをふりおとそうとすれば、背中の文字にも気付くだろうか。

著者紹介

小憶良 肝油(おおくら かんゆ)
前作「濃い紫」が書誌としてどのようにあつかわれているのかを説明することによって、小憶良肝油が存在しないことの客観的な証明に代えたいと思います。
まず、Amazonにおける商品紹介ページでは、「小説」と説明されています。
つぎに、国立国会図書館サイトのデータでは、「評論」に分類されています。
どちらが正しいと考えますか。
確かに、小憶良肝油を名乗る売文の意思は、出版社自身が文言を設定できる前者のほうに色濃くあらわれています。対して、後者と小憶良肝油とに関係はありません。
とすれば、国立国会図書館の分類よりもAmazonでの説明のほうが正確なのでしょうか。
二十一。この文字列の解釈の仕方が問題です。
小憶良肝油名義を用いる売文は、それを「にじゅういち」のつもりで提示しました。
しかしだれかに見せたところ、その方は「イコールプラスマイナス」と読みました。
つまり、「二十一」という文字列を、一方は「漢数字」と説明しながら、他方は「数学の記号」に分類しながら、提示しているということです。
もちろん、小憶良肝油と言う者はそれを小説と言い張り続けるでしょう。同時に、それが「イコールプラスマイナス」とも読めるのだと気付きました。一文字一文字の意味が変化するだけでなく、文字同士をつなげて解釈するかという問題もそこにはあらわれています。
たとえば、「二十一」を漢数字とみなすにしても、個々の字を切り離せば、「にじゅういち」というひとつの数ではなく、「に」と「じゅう」と「いち」というみっつの数の並列なのだと考えることができます。
イコールプラスマイナスの場合は、それだけではひとつの数式として成立しないということで、最初から各文字が切り離されることになります。
国立国会図書館と、著作権者との、いずれか一方だけが正しいという話ではありません。このずれは、とてもおもしろい現象ではないでしょうか。
あるいは、「二十一」の真ん中だけを「数学の記号」と思えば、「にプラスいち」と読むことも可能です。
二十一の文字列と対面したとき、どの読みも成立します。著作権者の言い分も、図書館の分け方も、両者ともにまちがいではないのです。
そもそも本の裏表紙に示してあるCコード(ISBNのしたに表示されている番号)にしたがえば、評論に分けるほうが適切とも言えます。
はたして、あなたはそれをどう読むのでしょう。ここにおいて、小憶良肝油は存在しません。